船のある切手 (その3)

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<遣唐使船>

 遣唐使は、九州から壱岐・対馬をへて朝鮮半島西岸を北上、黄海を横切って山東半島にいたる、いわゆる北路をとっていたが、半島を統一した新羅との関係悪化に伴い、4艘で船団を組み、東シナ海を横断する南路を取るようになった。 南路では、荒天時の避難場所がないため、大陸系の技術を導入した丈夫な船が使われた。
                 (「日本の船」和船編、安達裕之、船の科学館)

                    (Wikipedia 遣唐使

<遣明船>

 元に変わって 明が中国を支配した後、足利義満が明との交易を申し入れ、貿易が始まる。 遣明船は、使節船 兼 貿易船。
 乗員150人〜200人と食料・飲料水、貿易品を積むので、1000石積み以上の大型船が使われた。
 船は、国内海運の大型商船を転用している。
                    (「日本の船」和船編、安達裕之、船の科学館)

                     (Wikipedia 遣明船
                    (室町時代の船と遣明船

<御朱印船>

 朱印船は、徳川幕府から異国渡海朱印状を交付されて、東南アジアに渡航した貿易船。
 船は、「朱印前」あるいは「日本前」と呼ばれたジャンクで、中国やシャムで購入されたほか、国内でも作られた。
                    (「日本の船」和船編、安達裕之、船の科学館)
 切手の図柄は、長崎の清水寺に奉納された絵馬のもので、
旧日本造船学会ロゴマークの元図でもある。

                    (御朱印船 絵馬

<天地丸>

 将軍家光が上覧した寛永7年(1630)から 軍制改革により除籍になる文久2年(1862)まで、将軍の御座船の用に供された。
 明治7年(1874)に撮影された写真が残っている。
 船体は朱塗り。 航長69.3尺(21m) 肩幅23.7尺(7.2m) 深さ6.3尺(1.9m) で、「安宅丸」 の解体以降は、幕府の有する最大の軍船。
                    (「日本の船」和船編、安達裕之、船の科学館)

                    (御座船 天地丸

<千石船>

 弁才船(べざいせん)は、俗に 千石船(せんごくぶね)と呼ばれている。 18世紀前半に弁才船が全国に普及すると共に 1000石積み級の大型船が珍しくなくなり、そのような俗称となった。
 江戸時代、関東以西の太平洋と瀬戸内海で用いられた代表的な商船のひとつ。 船首形状が水押(みおし)造りという特徴がある。
                    (「日本の船」和船編、安達裕之、船の科学館)

                    (弁才船の帆走と航海

<昌平丸>

 薩摩藩は、オランダの造船書を参考に バーク型帆船 「昇平丸」を建造、それが江戸に回航され、幕府軍艦 「昌平丸」となった。
 木造の洋式帆船で、推定排水量は370トン。
                    (「日本の船」和船編、安達裕之、船の科学館)

                    (Wikipedia 昌平丸

<大成丸>

 日本で最初の商船学校は、明治9年(1876)に開校した三菱商船学校。 明治15年(1882)に国立校となり、東京商船学校と改名。
 明治31年(1898)に、同校の航海実習船 「月島丸」が建造されたが2年後に遭難。 代船として新造されたのが バーク型の練習帆船 「大成丸」(2287総トン、1904年竣工)。 明治43年(1910)から翌年8月にかけ、世界一周航海を行っている。
                    (「日本の船」汽船編、山田廸生、船の科学館)

                    (練習船 大成丸

<天洋丸>

 日露戦争後、明治43年(1910)に施行された「遠洋航路補助法」によりヨーロッパ、オーストラリア、南北アメリカなど6つの航路が国の保護政策を受けている時期に、サンフランシスコ航路に登場した、日本の海運史上画期的な大型客船(13,000総トン)。
 東洋汽船が 三菱長崎造船所で建造、主機には イギリスで実用化されたばかりの蒸気タービンを装備したことでも有名。
                    (「日本の船」汽船編、山田廸生、船の科学館)

                    (天洋丸

<浅間丸>

 昭和初期から 第二次世界大戦までの時期、我が国は 定期航路客船・貨客船の全盛時代を迎える。
 明治4年(1929)秋から翌年春にかけ、同型の「竜田丸」 「秩父丸」と3隻がサンフランシスコ航路に就航。
 船主:日本郵船、  建造:三菱長崎造船所、  総トン:16,947トン
 主機:ディーゼル4基、  出力:16,000馬力、  最高速力:20.7ノット
                    (「日本の船」汽船編、山田廸生、船の科学館)

                    (Wikipedia 浅間丸

<畿内丸>

 昭和に入った当時、極東からアメリカ東部に渡る貨物は、太平洋横断後 アメリカ西岸で鉄道に積み替えて運ばれていた。
 大阪商船は、これを 船積みのままパナマ運河経由で東部へ直送しようと構想し、この構想に見合った貨物船 「機内丸」(8,400総トン、最高速力18.5ノットのディーゼル船)を建造した。
                    (「日本の船」汽船編、山田廸生、船の科学館)

                    (畿内丸

コンテナ船 鎌倉丸>

 昭和40年代後半、シーランド社は41,000総トン、航海速力30ノットの「SL-7型」超高速大型コンテナー船を新造。
 これに対抗するため日本郵船が建造した 51,13総トン、公試運転速力31ノットを記録したタービン船。
 昭和48年(1973)のオイルショック以降、省エネが求められるようになり、昭和57年(1982)に、主機をディーゼルに換装している。
                    (「日本の船」汽船編、山田廸生、船の科学館)

                    (スーパーコンテナ船 「鎌倉丸」


タンカー 日精丸>

 昭和31年の エジプトによるスエズ運河国有化宣言と それに伴うスエズ運河の閉鎖で、各国のタンカーは喜望峰廻りとなり、これが超巨大タンカーの出現を促した。
 昭和50年(1975)に登場した 「日精丸」は、484,337重量トン、長さ360mで、建造は石川島播磨重工業 呉造船所。
                    (「日本の船」汽船編、山田廸生、船の科学館)

                    (Wikipedia 日精丸


<灯台百年記念>

 灯台記念日は、 横須賀市・三浦半島東端の観音崎に日本最初の洋式灯台である 「観音埼灯台」 が 1869(明治元)年11月1日に
起工されたことを記念して 海上保安庁が1949(昭和24)年に制定
した。

 船関係ということで この切手も掲載しました。 図柄の左が初代、
右が三代目の 「観音埼灯台」。

                    (Wikipedia 観音埼灯台