船のカタチ(88)  日本海軍の航空母艦
              鳳翔 <1922>、 龍驤 <1933>、 飛龍 <1939>、 翔鶴 <1941>級、 大鳳 <1944>
                                                                 2017-04 神田 修治


航空母艦(空母)は比較的新しい艦種であります。 従って後発の日本海軍も、この分野では欧米海軍とおおむね肩を並べて技術開発活動を競ったのであります。 そして太平洋戦争冒頭、日本の空母機動部隊は航空機によるハワイ奇襲をやりました。

鳳翔は世界で初めて新造計画時から空母として建造されたものでした。 このことは、当時先進各国が既成艦等の改造により空母を造ったのに対し、日本は空母分野に注力したといえます。 従って本艦はカタチも合目的なよいカタチと私は思います。
龍驤は中型空母だが、起工後要求性能変更(搭載飛行機数増加)や軍縮条約による変更等により無理な設計となったうえ、就役直後に友鶴事件、第四艦隊事件(注1)が起こり、その対策の変更工事もあり不完全な出来といわれています(1)。 しかし船のカタチとしてはハウス前面を曲面にする等の工夫をして、全体としてもナカナカよいカタチだと私は思います。
飛龍は種々の試行が行われた艦です。 もともと蒼龍級の2番艦であった飛龍だが、艦橋を左舷に配置したり、舵を左右二枚から一枚にしたりいろいろ試して、蒼龍とは大きく異なる艦となりました。 そして日本海軍の空母技術確立に大きく貢献しました。
翔鶴瑞鶴はそれまでの検討を集大成し、折しも軍縮条約が無効となり制約を受けることなく設計されて、空母として最適の艦になったといえます。 さきの戦争で、この級は太平洋戦争冒頭ハワイ攻撃から終末期1944年まで多くの海戦においてよく活躍しました。 そのあと戦争末期、翔鶴は1944年6月のマリアナ海戦、瑞鶴は同10月の比島沖海戦で失われました。 
大鳳はさらに改善を重ね、飛行甲板に装甲を施すとともに、この甲板を強力甲板(注2)としました。(2)  そのカタチはエンクローズド・バウ、巨大な艦橋となり、斬新なよいカタチです。 性能も用兵からの要求を満たし、その活躍が大いに期待されたのでありましたが、就役後最初の1944年のマリアナ海戦において、米潜からの一発の魚雷攻撃により漏洩した航空燃料の爆発によりあっけなく沈没しました。 これは航空燃料という危険物に対する安全対策の不備と、未熟な乗員の運用不備によるものと思われ、敗色濃いなかで蔓延した安全軽視、人材軽視という日本海軍の悪弊であったと思います。

さきの戦争の、初期においては、これらの艦は乗員の練度・運用もよく、ハワイ奇襲等健闘したが、1942年ミッドウエー海戦において、
蒼龍飛龍等多数の空母を失いました。 それは同時に多数の飛行機と練度の高い将兵、人材を失ったことであり、以後日本の空母艦隊は、下手な戦をやるようになったと私は思います。 ミッドウエー海戦はターニングポイント、とはよく言われることです。
日本海軍は空母と飛行機による戦争を発明したが、その飛行機戦によって、日本海軍は米海軍に敗れたのでありました。

 (注1) 友鶴事件、第四艦隊事件については後、駆逐艦の章に記述する。
 (注2) 強力甲板については 船のカタチ-8参照
 (1) 日本航空母艦史、世界の艦船481 1994-05     (2) 堀元美、現代の海戦、出版協同社1962




船のカタチ(88A)  日本海軍の航空母艦、 戦艦を改造して整備された航空母艦
               戦艦 加賀 <未成>、 航空母艦 加賀 <1935>、 
               巡洋戦艦 赤城 <未成>、 航空母艦 赤城 <1938>、 航空母艦 信濃 <1944>
                                                                2017-04 神田 修治


戦艦加賀(予想図)は、戦艦長門(船のカタチ-87)のあと、より進んだ戦艦として、川崎神戸にて建造中であったが軍縮条約のため工事中止。 船のカタチは長門等の長船首楼型と異なり平甲板型です。 上甲板は船首が高く、船尾へむかって直線的に低くなるカタチで、航走中の上甲板の水面からの高さを考えて合理的だが、艦内配置はやり難い。 私は長船首楼型が好きです。
航空母艦加賀、上図より以前に飛行甲板が三段のカタチがあったが問題多く再改装され、図のようなカタチになりました。
日本の空母はカタパルトがなく、飛行機は甲板を自走してテイクオフ(離陸、離艦)する方式なので飛行機に対空気速度を与えるため、艦には高速が必要だが戦艦は高速でなかったので、主機改造、出力増大し、船体長さを延長し、28.5ノットを得ました。
巡洋戦艦赤城(予想図)、加賀と同時期、巡洋戦艦として呉工廠で建造中止、船体は長く、主機も高出力で高速でした。
戦艦加賀と同様、艦首が高く艦尾にむかって低く傾斜した平甲板型。 高速の細長い艦ではこれもよいカタチと私は思います。
航空母艦赤城加賀と同様の経緯で改装されたが、もともと高速であったので、主機等はそのままで充分だったようです。
航空母艦信濃大和型戦艦の3番艦として横須賀工廠にて建造中であったが、ミッドウエー海戦において多数の航空母艦を喪失したことに鑑み1942年急きょ工事計画を変更し、航空母艦として完成することとなりました。 急いだ突貫工事の中、区画気密試験が省略され、水密性が不完全でした。(1)  図中、戦艦大和船のカタチ-87)と同様の波うった上甲板の線が見えます。

加賀赤城、と前述の蒼龍飛龍等はミッドウエー海戦で失われました。 信濃は完成後1944年11月、横須賀から呉へ回航途中米潜の魚雷を受けたが、上述のように水密不完全であったためそのまま沈没という残念なことでありました。 これは今の私たちのセンスから見れば欠陥工事と言えるでしょう。 ここにも当時の日本海軍の無責任な安全軽視が見られると思います。

日米の空母の太平洋戦争における建造、活動、喪失等については小野靖彦さんがKシニアに発表しておられます。(2)
それにもあるように前述の瑞鶴大鳳は川崎建造です。 私事ですが、むかし私が川崎入社のころはこれらの艦の建造に携わった方々もまだ在職されていました。 その中、当時造船工作部艦艇課長 川上寿夫氏は、新入社員教育講話で瑞鶴工事の経験談をされたのを、私は記憶しています。
今回は
戦艦加賀巡洋戦艦赤城の予想図を描き、当時の新鋭主力艦の「船のカタチ」につき種々知ることができました。

 (1) 福井静夫、日本の軍艦、出版協同社 1956
 (2) 小野靖彦、日米空母機動部隊を回顧、Kシニア 2016.01.25 海友フォーラム No28 懇談会
 


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