船のカタチ(91)  日本海軍の潜水艦
              伊-1 <1925>、 伊-68 <1934>、 伊-6 <1935>、 伊-15 <1940>、 呂-35 <1943>、
              伊-400 <1944>、 伊-201、71号艦 <1938>
                                                                 2017-07 神田 修治


日本海軍の代表的潜水艦を上図に、竣工隻数とともに示しますが、これを見ると「多種少数」といえます。
日本海軍には日露戦争以来の伝統的な「艦隊決戦」という思想があり、潜水艦もこの考えで計画・建造されました。
広範囲に展開して偵察するための航続距離の大きい巡潜型(
伊1伊6)と、艦隊決戦の前哨戦をやるため高速の海大型(伊68)の2系列を建造したが、後にこれら両方の機能を兼ね備えた優秀艦として、水上偵察機(水偵)を搭載した乙型(伊15)が計画され20隻が建造されました。(注1)  また中型の量産用として海中型(呂35)が18隻建造されました。 開戦後も多種多様な潜水艦が開発されましたが、それらは長駆米本土を航空攻撃する潜水空母ともいえる潜特型(伊400)や、水中高速を発揮する潜高型(伊201)や高速試作艦(71号艦)等があり、各1~3隻、まさに多種少数でありました。

これらはアイデア豊かな高性能艦であったが、戦争に勝つという戦略的な観点からは疑問あったと私は思います。 潜水艦の利点は隠密性のみといえ、他は速力も探知能力も攻撃力も水上艦には及ばず、艦隊決戦の用兵では敗れたのは当然であり、用兵の失敗でした。 ついでにいうと、米海軍は種々検討した結果、GATO級(注2)一本に絞り、同型195隻という大量を建造しました。 それらは日本の潜水艦に比べ特に優秀ではなく並みの性能だったが、艦隊決戦ではなく日本商船の攻撃に用い、日本の補給活動を破壊して、日本の戦争遂行能力を壊滅し、戦略的に成功でした。

これに関連し、日本海軍の技術者 福井静夫氏は著書 「日本の軍艦」 のなかで 「潜水艦の活用失敗は、用兵者の杜撰によるものであったが、その責任は用兵者にきちんと提言しなかった技術者にもある」 と述べ、また日本の潜水艦設計は「座禅を組んでインスピレーションにより定性的にのみ考えるという根本的な欠陥があった」と反省を記しています。(注3)
理詰めで解り易く、定量的に考えることは、地味でシンドイが、必要かつ大切、というのが私の体験・思いです。

今時の日本の潜水艦はどうか、その役目は 「潜水艦 vs 潜水艦」 であり、日本領海及びその周辺に近づいてくる他国の潜水艦があれば、先んじてこれを発見・監視し、優位を占めて対峙し、他国潜水艦を域外へ退去させることです。そして 「近接拒否」 「武力衝突抑止」 を図ることであり、日本潜水艦はこの役目を果たしていると私は思っています。(船のカタチ-49

  (注1) 乙型の他に、甲型、丙型があり、甲型は乙型に旗艦設備を追加したもの、丙型は水偵機は無く
      魚雷数を増加したものである。
  (注2) GATO級については次回図示記述する予定
  (注3) 福井静夫、日本の軍艦、福井静夫 日本の軍艦 出版協同社1956 pp229~ 


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