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稀有な体験記 
2015年4月28日 記  木村一馬 

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 見事に晴渡った4月中旬、カメラ同好会の仲間と京都府立植物園に撮影行した。
賀茂川河岸の菜の花の黄色が澄んだ青空にひときわ映えて、満開を過ぎたしだれ桜の遊歩道をジョギング人が行き交っている。 対岸では、爽やかなこの日を待ちわびていたように、各ベンチはグループで談笑し、弁当を広げている人、ぽつねんと思索にふけっている人、等で埋められている。




 園内は八重桜が満開で、チューリップや芍薬、その他色彩豊かな春の花が、“今が盛り”とばかり、写欲を大いに駆りたたせる。 園内の広場では、すでに昼食を済ませた小学生の一団が元気な声を張り上げながら駆けずり回り、澄んだ青空には二羽の鳶(トンビ)が大きな円を描いていた。



 我々は昼食を木陰のベンチで摂ることにした。 テーブルを挟んで二人ずつ向き合うように、私は広場の子供達を眺めながら、テーブルに直角に向いた格好で席をとり、サンドイッチを右手に持って、ペットボトルのお茶を飲んでいる時であった。
 突然、後ろから耳元に羽触りを感じると、何かが飛び去って行くのが見えた。 一瞬の出来事である。 人差し指に痛みを感じてよく見ると血が滲み出ている。 鳶が、我が右手のサンドイッチを包装紙ごと咥えて持ち去って、その際、爪か嘴が私の人差し指を引っかけたようだ。 鳶は後方から襲ってきたので、私には飛び去っていく鳶の後ろ姿しか見えなかったが、対面に座っていた仲間の話では、鳶は上空から、少し離れた処で舞い降りて、しばらく水平飛行した後、“大胆な行動”に出たということである。 さいわい、指はひっかけ傷一つで済んだ。 血が滲み出てくるので、指にティッシュを巻いて止めるしかない。 血が止まったと思っても、力を入れてシャッターを押すと、また血が出てくる。 しかし、一歩間違えて「指を喰いちぎられていたら・・・」と考えると、ぞっとする。 行楽シーズンは戸外で弁当を食べる機会が多いが、上空の野鳥にも注意を向ける必要があることを教えられたような気がした。

 この出来事が気になって、帰宅後に、寺田寅彦全集から「鳶と油揚」を引っ張り出した。
 「とんびに油揚をさらわれるということが実際にあるかどうか確証は知らないが、しかし、この鳥が高空から地上のねずみの死骸などを発見してまっしぐらに飛び降りるというのは事実らしい」で始まる随筆である。
 その中で寺田は、上空の鳶が地上のねずみの死骸を発見するに際して、“鳥の視覚”による判断は困難であると推定し、次に嗅覚に関しては、ダーウィンが行った実験例を引用している。 そこでは「鳥の嗅覚は甚だ鈍いもの」と報告されているが、寺田は「・・・単に嗅覚の刺激ばかりでは不十分であって、そのほかに視覚なりあるいは他の感覚なり、もう一つの副作用が具足することが肝要であるかもしれない」として、地上の腐肉から発散する空気流について言及している。 「臭気を含んだ一条の流線束はそうたいして拡散希釈されないので、そのままかなりの高さまで達しうる」、「そういう気流がまさしく鳶の滑翔を許す必要条件なのである」と論旨を展開している。 そしてこの上昇気流は、晴天の日、熱対流により地面が熱せられて起こる現象である。

 話をあの日の午後の植物園にもどす。
 子供達は、上昇気流の沸き立ちやすい炎天下の広場で、グループごと円座になって弁当を食べていた。 弁当の中身はさまざまで、食材から発する匂いも雑多なものであったに違いない。 一方、我々が食していた場所は直射日光を避けた木陰で、広場ほどには空気の熱対流も活発ではないが、しかし、秘かなそよ風は流れていた。 同じテーブルで、他の三人はおにぎりを、私はハムと卵にレタス入りのサンドイッチを食べていた。 そして、そのサンドイッチが狙われた。 サンドイッチに含まれるマヨネーズは、どちらかと言えば、匂いがきつい。 この匂いが偶々そよ風に乗り、鳶の嗅覚を刺激したのではないかと考えると、寺田寅彦の説も一応うなずけ得るのである。

 広場の小学生の中にも、勿論、サンドイッチを食べていた子供もいただろう。 マヨネーズをたっぷり効かしたおかずを食していた子もいたに違いない。 炎天下で上昇気流も活発で、鳶の嗅覚を刺激する機会は木陰よりも多かったと推定し得る。 しかし、鳶は彼らを襲ってはこなかったが、子供達は大きな一団として場を占めていたので、鳶に付け入る隙を与えなかったのではなかろうか。
 園内には「野鳥に注意!」と掲示もされていたらしい。 という事は、鳶に襲われた事例は私が初めてではないという事だ。 私は、『マヨネーズの匂い』が鳶の嗅覚を刺激したと想像しているが、事例を集めて分析すれば「鳶と油揚」の関係がもう少し明らかになるかも知れない。

                                                 (おわり)