船のカタチ(72)  1930年代の優秀貨物船
              赤城丸<1936>級、 関東丸<1930>級、 有馬山丸<1937>級、 金剛丸<1935>級
                                                                   2015-12 神田 修治
図中、左側は正横側面図、 右側は船首45°右舷から見た図を示す。


本シリーズの 「船のカタチ-13」 ではカーゴライナーの発達・進化を説明するため、代表として畿内丸、能登丸、
神川丸を図示しましたが、それらと同時期1930年代の日本には、他にも優秀な貨物船がありました。 今回は
それらの中から取上げ、補遺といたします。

赤城丸<1936>級 NYKの欧州航路用、能登丸の発展型、三島型、主機は複動デイゼル1機1軸。
関東丸<1930>級 OSK、畿内丸と同要目だが本級は横浜船渠建造で、カタチは畿内丸とかなり異なる。
有馬山丸<1937>級 三井船舶のNew Yorkカーゴライナー。 太平洋戦争に生き残り、戦後も活躍した。
金剛丸<1935>級 国際汽船のNew York カーゴライナー、川崎、播磨、浦賀、3造船所で建造された。

これらの船はいずれも、畿内丸等と同様の狙いのもと、約140mLの船体に7~8000PSのデイゼル主機を積んで航海速力17ノットの高速を出し、当時の世界の貨物船の中でも特徴あるものとして、斯界の注目を集めました。[1] その狙いとは、当時日本等から米国中心地・東岸ニューヨーク等への貨物は西岸サンフランシスコ等の港でいったん卸し、大陸横断鉄道に積替え東岸へ運んでいたのを、新しい方法としてパナマ運河経由、東岸へ直航するというものでありました。 その狙いは、これらカーゴライナーの高速と高経済性によって成功し、日本の船社はシルク・絹製品を中心とした貨物を運送し、業績を伸ばしました。

ところで上記の国際汽船とは、戦前の鈴木商店グループの船社で、当時有力な船社でありました。
国際汽船は、川崎汽船、川崎造船船舶部と合同して3社による貨物船定期航路を運営し、3社の頭文字Kから「K-Line」と名付けられた。 それが現在の川崎汽船の「K-Line」に繋がっているそうです。[2]

 [1] Cargo Liner, An Illustrated History, A. Greenway, Seaforth Pub. 2009, New Japanese Motor Ships
 [2] 川崎汽船五十年史、川崎汽船(株)、1969



船のカタチ(72A)  1930年代の優秀貨物船 (付録) 戦前日本の高速タンカー (川崎型油槽船)
              東亜丸<1934>、 極東丸<1934>、 建川丸<1935>、 日本丸<1936>、 厳島丸<1939>
                                                                   2015-12 神田 修治
図中、左側は正横側面図、 右側は船首45°右舷から見た図を示す。


1930年代には、カーゴライナーだけでなく 油タンカー の分野でも優秀船が輩出しました。
その中に川崎造船所が建造した高速タンカーがあります。 これらは10,000GT、14,000dwt、150mLの船体に8,000~10,000PSのデイゼル主機を積み、航海速力16~18ノット、後期の船では試運転最大速力は20ノットを超えたと言われます。 世界的にも類例のない高速タンカーで、英国雑誌Motor Shipにも紹介されました。[1]

現在のセンスではこんなに高速の船ではコスト高く不経済と思われますが、これには当時日本の石油輸送の特別な事情があったのです。 1920年代日本海軍では軍艦の燃料の石炭から石油への切換えが進み、また日本における石油産業の発達もあり、1934年「石油業法」が施行され、石油と石油タンカーの需要が急増しました。 中でも海軍は戦雲の動きもあり、優秀なタンカーの建造を奨励し、積荷保証や高運賃等の優遇措置をとり、これを受けて飯野は東亜丸と極東丸、川崎は建川丸、山下は日本丸を建造し、主に米国カリフォルニアから日本への石油運送をやり、良い業績を上げました。 また日本水産も厳島丸を建造したがこれには前述「優秀船舶建造助成施設」(船のカタチ-70)の適用を受けました。 このグループは計13隻です。

これらの船のカタチは古典的なよいカタチと思いますが、高馬力のデイゼル主機を積むため機関室区画の長さが著しく長い。 これらの船は「川崎型油槽船」としてインターネットWikipediaにも紹介されています。[2]

戦争がはじまるとこれらの船は、海軍や陸軍に徴用され、特設運送船(給油)等として活動したが、その高速性能は艦隊とともに行動するに有利であったと思います。  これらの船はすべて戦没しました。

ところで上図の彩色は、カラー写真がないので記念絵葉書等を調べましたが不正確なところもあると思います。 厳島丸は戦後の日本水産・宮島丸のカラー写真を参考にしたが、昔は違っていたかもしれません。

 [1] The 19knot Tanker TATEKAWA MARU、The Motor Ship、Sept.1925
 [2] 川崎型油槽船 (wikipedia)


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